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撮影雑記(12)2015/0821〜0825

text & Photos   青池 憲司    Post   2015.12.21

8月21日。曇後雨。第16次石巻撮影行。仙台からはひさしぶりにミヤコー高速バスに乗る。三陸自動車道に入ると視界が開ける。運転席の真後に陣取ったので左右がパノラマ的に見渡せる。美しい、といっていい。利府中、松島大郷、鳴瀬奥松島、矢本などのインターチェンジをすぎて石巻へ近づくにつれて、震災の年の4月中旬に自衛隊の救援車輛隊列に挟まれながら走ったときに見た光景をありありと思い起す。二つの、わたしの風景が交錯するなかをバスは行った。

まねきコミュニティ(門脇地区)へ。土地区画整理のため、本間家土蔵の曳家が近々に予定されていて、その準備作業(推定80tの土蔵を約1m50cmジャッキアップする)がはじまっている。いちどに6cmずつ、土台の両端を交互に上げて、その下に木材や鋼材を組み込み、またジャッキアップし、という工程を時間をかけて繰り返し、徐々に持ち上げていく。

宮城県石巻市
石巻市
宮城県石巻市
石巻市

8月22日。曇時々小雨。門脇町2丁目から5丁目の旧町内会を横断するかたちでつくられているまねきコミュニティの夏まつり。震災前は地域の地蔵講(「後町下地蔵」)として行われていたが、震災4年後の現状ではそれはかなわず、ことしは、まあ、「コミュニティまつり」といった趣である。天候が定まらないので4丁目の大きな石造りの倉庫と空地を利用して行なわれた。いまこの地区に住む二十数世帯の人たちと、地区外居住を余儀なくされている人たちの家族が集まった。その数はけっして多くなかったが老若男女の親近感あふれる環がひろがった。歓談ではあるが話題は悲喜交々、どの人の胸中も複雑であり、それをみんなで重ね合わせるように、済い合うように会話がつづく。

門脇町3丁目の稱法寺横に建設される復興公営住宅地の嵩上げが終り、9月1日から工事がはじまる。完了予定は来年の10月末である。新門脇地区には2か所に復興公営住宅ができるが、ここには60世帯の入居が予定されている。もう1か所には90世帯、合計150世帯。避難して仮設住宅などに住む人たちにとって待っていた工事着工である。元の住民がどれほどかえってくるか、新住民がどれほど入ってくるか、まねきコミュニティの現住民にとっても気になるところである。嵩上げの土は、ガレキ残土をふるい分けた再生土で、表面にうっすらと草が生え出ている。

撮影終了後、門脇町2丁目のさくら理容で散髪。この理髪店には震災後からときどき通っている。長期のロケで散髪の必要が生じたときは取材先のいちばん近くの店を選ぶことにしている。髪に触ってもらいながらの四方山話が、その地の所柄、人柄を知る手立ての一つになる。この店の一帯はゆくゆく防潮堤が造られるので、すでに内陸(蛇田方面)への移住がきまっている。

8月23日。雨後曇。午前中は雨模様なので撮休。午後、まねきコミュニティへ。門脇町4丁目の和田文子さんとお話しする。80歳をすぎていらっしゃるが、ゆたかな観察眼をもった女性。毎日、自宅の窓から見える周辺環境の変化と、ご自分の日日の過しかたを語っていただく。

きょうは、「トリコローレ音楽祭2015」(ことしで12回目)が、まちなか(中心市街地)の公園や仮設商店街、空き店舗、団体事務所、駐車場など14か所を特設会場にして開かれている。出場ミュージシャンは、宮城県内外のアマチュアバンドなど148組、約720人。ジャズありロックありポップスありフォークあり昭和歌謡あり。

不順な天気の回復を諦め、スタッフ3人で、メイン会場の中瀬公園へ出かけた。ごひいき(贔屓)の「石巻ジュニアジャズオーケストラ」は、時間の都合で聴けなかったが、「Sweet Little Soul」というグループのブルーズを聴いた。ちょっと肌寒かったが、目の前の旧北上川の川風に吹かれながら、彼/彼女らが歌うB.B.キングをたのしんだ。すっかりOffの気分である。

まちなかをぶらぶらし加非館で珈琲。ママやマスターとおしゃべり。夕食は「鳴海」で、晩酌セットを肴に地元の銘酒「墨廼江」「日高見」を呑む。晩酌セットというと、かんたん調理のツマミの2、3品をイメージするかもしれないが、どっこい、これがそれぞれに一品で満足感大である。この店は、震災後、個店としてはかなり早くに再開し、よろこばれた。

宮城県石巻市
石巻市

8月24日。曇。仮設青葉団地に荻原哲郎さんを訪ねる。以前は南浜町に住んでいて津波でおくさんを亡くされた。いまだ行方不明である。5月31日の「門脇・南浜地区行方不明者一斉捜索」の折にもインタヴューさせていただいた。地区の行方不明者は147人。このときの捜査は南浜町全域と門脇町3〜5丁目(約32ヘクタール)という触れ込みだったが、実際にはその約3分の2のエリアで終ってしまい、Oさんの自宅跡の辺りに捜索隊はこなかった。作業時間も午前9時から正午の予定が11時頃には終了していた。

「捜索方法があまりにもおざなりで、行政の態度はカッコウだけのものにすぎなかった」と、荻原さんは不満をもらした。きょうは一斉捜索に関するそのごの状況を訊いた。「南浜一帯は、祈念公園の工事でもう1回土地整備をするのだから、そのときいっしょに捜索すればいいではないか、というとんでもない意見がでてきた」。「ここに慰霊のための祈念公園を造ろうとしているが、147人の行方不明者を放っておいて、その土地の上に何かを造って、それが祈念になるの?」。「当事者以外はだれも真剣に考えていないような気がして、もう辛さをとおりこして、悲しいだけだね」。

門脇町2丁目の比佐野信一さんとお話しする。撮影。かつて九軒町と呼ばれたこの一帯に震災前は約50世帯が住んでいた。それがいまは7世帯で昔の九軒にも充たない、と比佐野さんは笑う。旧門脇小学校を遺構として残すか否かについて、祈念公園について、新門脇地区自治会のイメージなどをきく。

「石巻市南浜地区の未来を考える会」メンバーの阿部聡史さんにインタヴューする。昨秋から今春にかけて会が市民と行ったワークショップの報告書(参加者老若男女の意見・イメージ・希望・要望などの分析と提言)が出されたので、それをふまえ、ワークショップの成果をどのように行政(国・県・市)に繋げ、具現化していくか、を中心に話を訊いた。

きょうは、仕事も年齢も生活環境も異なる3人とお話しした。さまざまな事象を語ることばと身振りから被災地世界(世間)のかたちが見えてくる。

宮城県石巻市
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