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撮影雑記(14)2015/1015〜1020

text & Photos   青池 憲司    Post   2015.12.21

10月15日。晴。石巻到着後、タクシーでまねきコミュニティへ。市内のあちこちで建設工事が見られるようになったが、立町大通り、アイトピア通りをすぎて旧北上川沿いの門脇町1丁目辺りの河岸側は、いまだに廃屋と更地が広がっている。震災後、4年7か月が経過しているというのに。そこをすぎると、右手に大きく視界が開ける。日和山の麓から旧北上川河口へと、そして太平洋(石狩湾)へと広がる門脇・南浜・雲雀野地区である。毎回のことだが、この瞬間にきもちが引き締まる。ここが現場だ。わたしたち(撮影隊)の目の前にはまだ見ぬまちが広がっている。

(以下、ちょっとおさらいふうに工事などの概要を)

門脇町2丁目〜5丁目の「新門脇地区被災市街地復興土地区画整理事業」の工事がはじまったのは、昨年(2014年)の8月末である。事業面積は23.7ha、そのうち宅地は14.6haで、250戸分が整備される。復興公営住宅は2か所に計150戸を計画。戸建て住宅と公営住宅合せて400戸、人口は1070人が想定されている。

地区の東西を走る南光門脇線(八間道路)は幅37.5メートル、3.5メートル以上の高盛土道路になる。これは津波防御の第2線堤防でもある。宅地は、その北側と日和山の間を2〜3メートルの高さに嵩上げして整備する。西光寺、稱法寺と墓地は現状のまま残す。

工事は、東側エリア(2丁目〜3丁目の一部)、中央エリア(4丁目〜旧門小東辺)、西側エリア(旧門小西辺〜5丁目)に分けて行われ、整備終了はそれぞれ2016年夏から秋が見込まれている。総事業費は81億円、79億円を国の復興交付金で賄う。事業は市の委託で独立行政法人都市再生機構(UR)が進めている。

新地区には、公園と緑地が3か所ずつ造られる。防災機能の充実に向け、災害発生時の避難に活用できる日和山など高台につづく階段と通路を1か所ずつ設ける。復興公営住宅の最上階には、備蓄倉庫を兼ねた一時避難場所の設置を検討している。石巻市が土地区画整理事業の決定した2013年秋から、個別面談や土地売却希望調査で地権者の意向を確認した資料では、新門脇地区にもどる地権者は震災前の約4割にとどまる見通しだという。

土地区画整理事業の工事開始から約1年2か月。東側エリアの宅地盛土作業は他の2エリアより先行して進み、2丁目に1世帯、4丁目に3世帯の新築家屋が建った。まねきコミュニティの世帯数増加であるが、アパートに住んでいた2世帯が他町へ引っ越したので、プラスマイナス、新門脇地区ただいま25世帯である。

大街道南の宿舎の冬支度をする。まねきコミュニティの本間英一さんから温風ストーブとホットカーペットの提供を受ける(一冬お借りすることに)。その夜に寒さがやってきて、さっそくストーブを点けた。大感謝。

17日。第18回ロケの撮影初日。まねきコミュニティの芋煮会。地域内の人たちや、いまは他地域に住む元の住民さんたち約30人が集った。和田家菜園での枝豆採りから食材の準備、仕込み、芋煮炊き、日和地区に住む女性93歳佐藤はしめさんの車での迎えなど、何から何まで協働の集いである。タクシーでやってきた人もいる。この日は、一昨日とはうってかわって暖かな陽気となり、寄り合った人たちは、昼をはさんで3時間ほどの団欒をたのしんだ。眼を転じればそこには高盛土された宅地と工事現場と原野が広がっている。茫漠たる風景のあちこちでダンプが走り、重機がうなる。工事に取り囲まれて毎日たいへんですね、の問いかけに、「やっと地域の変化が目に見えるようになってきてうれしい」という住民さんの声があった。

18日。秋天好日。門脇町2丁目の佐藤正さん宅横の下水溝工事現場から弘安5年(鎌倉中期 1282年)の板碑(供養のための平たい石の卒塔婆)が出てきた。「板碑は鎌倉時代から戦国時代まで建立され、石巻では613基が確認されている。碑の左側には極楽往生〜、右側には右志者為〜(みぎこころざしは〜のため)と刻んである。近所の稱法寺では、江戸時代(宝暦13年)に本堂建築のときに土中から弘安6年の板碑が発見されている」と、地元の本間英一さんにきいた。

宮城県石巻市
石巻市

その本間さんの案内で、原野(南浜町と門脇町の一部と雲雀野)を歩く。定期的に撮影している湿地周辺で、葦、薄、背高泡立草、蒲の穂と綿毛、など秋の植生を撮る。湧水と雨水でできた小さな池では蜻蛉がとんでいる。震災後に現れたこうした自然環境を、復興祈念公園計画にどのように取り込んでいくのか?課題の一つである。

宮城県石巻市
石巻市

石巻市内には宮城交通の路線バスが走っている。路線によって異なるが、1日に3本か多くて7、8本である。わたしたちの宿舎近くの上野町を通るバスは日に6本。わたしも石巻駅前に出るのに2、3度利用したが乗客はいつも高齢者、それも女性ばかりで男はおなじく老年のわたしひとりであった。駅前から門脇町、南浜町を通り駅前へもどる循環バスがあって(日に3本)、それに乗って車窓からの風景を撮影した。乗りこんだのはわたしと一之瀬正史キャメラマンのふたりだけ。途中でひとりふえたがやはり高齢女性であった。

バスは、石巻警察署前や本草園前(かつて薬園や梨畑があった)や石巻日日新聞社前をすぎて、日本製紙石巻工場を右手に見ながら進むと、とつぜん視界が開けて高盛土の台地と草原になる。眼に入るのは、日和山の山裾にある二十数軒の家と寺と墓地。震災まえは1772世帯、4423人が住んでいた門脇町、南浜町、雲雀野町の現風景である。南光町一丁目バス停から先の門脇五丁目、門脇小学校前、門脇三丁目の3バス停は、かつての路線バス道路が高盛土工事の真只中にあるので、停まるべき場所がない。

いま、バスは海側の道路(門脇流留線)を走りどこにも停まらないが、車内のアナウンス・テープは律儀にバス停名を告げている。バスが本来の路線にもどるのは門脇三丁目をすぎて網地島ラインからである。次の門脇二丁目で撮影を終え下車した。(同乗の女性は駅前まで行くそうだ)。われわれのドキュメントの主要エリアは、バス停でいえば門脇五丁目から門脇二丁目まで、走行時間約8分のなかにある。

19日。晴時々曇。深夜というか早朝というか、03時30分に起きて、1時間後に大街道南の宿舎を出発。日和が丘の、門脇町・南浜町・雲雀野町が一望できる場所にキャメラを立てる。震災後の夏に最初の撮影をしてから、もう何十回とここから見える情況を定点的定時的に記録してきた。けさは、この地の夜明けを撮るためにキャメラを据えた。05時40分頃からうっすらと明るくなってくる。シュート。20分くらいキャメラを回しっ放しにする。06時すぎに太陽が出る。日の出を撮って撮了。朝食は、旧北上川をわたって、魚市場の斉太郎食堂でかつお定食。豪儀だね。

海岸防潮堤工事現場。これは、石巻工業港付近を中心にした整備延長約17km(東松島市域を含む)の防潮堤で、計画高TP7.2m、平成28年度の完成目標である。工業港方面から辿ると、日本製紙石巻工場から雲雀野町・南浜町(ともに、いまは原野。将来は復興祈念公園になる)をへて、旧北上川河口部が西端になる。日本製紙石巻工場の火力発電所(2018年3月事業開始予定)敷地の辺りから日和大橋西詰までの約1kmにわたって、鋼矢パイプが打ち込まれ、堤防盛土が進んでいる。その現況を撮る。現堤防前の砂浜と打ち寄せる波が美しい。

旧北上川河口から右岸を遡ると門脇町2丁目である。河口部から2丁目までの堤防の高さもTP7.2m。以前は窓越しに眺められた川景色がまったく見えなくなる。この辺りはいま工事現場のなかに家があるといった風景である。宅地の嵩上げはほぼ終ったが、道路拡張や下水溝、側溝の工事が真っ盛り。撮影していると、馴染みの高橋紀代さんが自転車を引いてやってきたが、住民さんは自宅から目と鼻の先の道路へ出るのも一苦労である。

きのう撮影した板碑の出てきた場所の近くに住む佐藤正さんが秋の陽を浴びながら、押し寄せる工事音のなかで悠然と柿の皮むきをしていた。干し柿つくりだ。撮影隊も脇にしゃがみこんで世間話をする。それにしても、佐藤さん、武骨な手で薄皮をはぐようにすいすいと柿をむいていく。見事。「おれのこどものころは秋になるとやらされてたからね」

門脇町3丁目の復興公営住宅の建設工事がはじまった。稱法寺のベランダをお借りして撮影する。真下に基礎工事が見てとれる。来年秋には完成し90世帯の入居が可能となる。仮設住宅や借り上げ住宅で入居を待ち望んでいる元住民さんがたくさんいる。

20日。わたしが勝手に「本間資料室」と呼んでいる、テニスクラブハウス隣のログハウスで、震災前の門脇・南浜資料と震災関連資料、川湊石巻の歴史文献などを読む。これまでも何日かこもっているがなかなか読み切れない。本間英一さんの収集力に脱帽。

宮城県石巻市
石巻市
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