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2014年秋原野とことば

text   青池 憲司    Post   2015.6.16

「おそい」「うごかない」。今回の撮影行でお会いした住民さんのどの口からも発せられたことばです。震災から3年半がすぎています。門脇町「まねきコミュニティ」のみなさんも、まちなかの商店主さんたちも、コンパクトシティいしのまき・まちなか創生協議会のメンバーも、再開発事業をすすめる人たちも、仮設住宅暮しの知人たちも、あいさつの次に出てくることばがこれでした。被災地の住民さんとは軽重にちがいはあるでしょうが、わたしたちスタッフの思いもかわりません。

今回の撮影の主な目的は、いつもどおり3点。まずは「まねきコミュニティ」の住民さんの話をきくこと。原野(門脇町と南浜町の現状を、住民さんたちが「まだ見ぬまち」づくりへ向う原初の風景として、わたしたちはこう呼んでいます)の変容。まちなか(中心市街地)の変化です。

住民さんの話は後述するとして、後の2点についてはとくにかくべきことはありません。ほとんど何もかわっていないからです。原野でいえば、高盛土され拡張され新しくなる八間道路(南光門脇線)の高さと幅を示す標識が作られていました。地権者の敷地の構造物の掘り起こし撤去や除草などが主な作業で、道路の建設作業に入るのは年が明けてからのようです。

まちなかのアイトピア通りと旧北上川沿いの中央1丁目2丁目、松川横丁なども、すでにそれぞれの当事者・関係者による検討・合意でプランはできあがっているのですが、うごきだしません。みなさんスタートラインでの立ち往生を余儀なくされている状態です。

まち(住環境や商業施設)づくりは住民⇔専門家⇔行政の協働作業ですが、前2者の発案と提言の受け皿となるべき行政(市のみならず県、国も)が態度をはっきりさせません。わたしは、"ナンデモ行政アカン主義"はとりませんが、現状をみていると、「石巻行政は判断力と実行力に欠ける」という住民さんの意見に同調せざるをえません。

今回の撮影行では、7家族12人の方にお話をうかがいました。あらためて書くまでもなく、被災体験とそのごのすごしかたは家族によってちがいますし、おなじ家族でもその人がそのときどこにいたかで異なります。当時、門脇小学校2年生だったRくんは下校途中で地震に遭い、いっしょにいた友だちの家に駆け込みます。そのまま家にはもどらず友だちの家族とともに門脇小に避難します。かれは、それぞれ別の経路で避難してきた父母弟たちとここで合流できたのですが、それで安心ではなく、家族やそのときそこに集ってきた人びとといっしょになっての、火の手が迫る門脇小からの脱出があり、さらに危険を避けて、寒さ募る夜中に避難所を転々とする一夜がありました。

原野に、まだ解体撤去せず建っている住宅が3軒あります。そのうちの1軒を訪ねました。もちろんいまは住んでいませんから、持ち主のHさん家族(3人)に出向いてもらって現地でお話を聞きました。家のなかに入ると、3人は、ああっ、と声をあげました。家のなかは足の踏み場もないほど散らかっていたのです。わたしは、津波にやられたままの状態かと思ったのですが、そうではなく、泥棒にやられたのだといいます。しかも、一再ならず10回ちかくも。被災時は築6年で、手を入れればまだ住めると、何度もそれこそ「舐めてもいいほどきれいにした」そうです。いまの乱状はついさいきんのことだろうといいます。「もう盗っていくものもないので荒らすだけ荒して」。ところで、Hさんはなぜいままでこの家を解体しないでいたのか?その話は本編で。

不動産業を営んでいるH・Sさんとおくさんの話。おふたりは、自分たちの身のまわりのことはさておき、当時管理していたアパート約1500軒の居住者と大家さんの安否確認に奔走したという。直後はいっさいの電話連絡がとれず、それが可能になってからは日に300本の電話を受けたことがある。しかも、電話はたんに事務連絡に終らず、どの人もみんなわが身わが家族の状態を語り、それをじっと聴くのも仕事の大半を占め、一時は自らがノイローゼになりかけたといいます。

まち(コミュニティ)に、まぐろ取り50年の元漁労長あり、和菓子屋さんあり。こどももおとなも被災体験と震後の生活は百人百様です。住民さんインタヴューはつづきます。

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